大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

山口地方裁判所岩国支部 昭和62年(ワ)25号 判決

原告

古川悦敏

右訴訟代理人弁護士

桂秀次郎

本田兆治

被告

岩国市

右代表者市長

貴舩悦光

右訴訟代理人弁護士

森重知之

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一当事者の求めた裁判

一請求の趣旨

1  被告は、被告が管理する本庁舎及び出先機関(以下「庁舎」という。)のうち別紙図面1ないし20記載の朱色で囲む部分(以下、これらの各部分を「事務室」という。)を禁煙にせよ。

2  被告は、原告に対し、金三〇万円を支払え。

3  訴訟費用は被告の負担とする。

4  第2項につき仮執行宣言。

二請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二事案の概要及び争点

事案の概要

本件は、被告の職員であって、被告の管理する庁舎に勤務する非喫煙者である原告が、被告に対し、被告がその庁舎管理権に基づき庁舎の事務室を禁煙にしていないために、原告は事務室内での喫煙者の喫煙によるたばこの煙を吸うこと(これを「受動喫煙」という。)を余儀なくされ、健康を侵害されているとして、人格権に基づいて事務室を禁煙にすること(妨害予防請求としての差止)を求めるとともに、被告が事務室を禁煙にしていないことは原告に対する安全配慮義務に違反するとして、債務不履行ないし不法行為に基づき慰藉料請求としての損害賠償を求めた事案である。

一争いのない事実

1  被告の職員である原告は、岩国市役所たばこの煙から職員の健康を守る会(以下「守る会」という。)の代表者であり、岩国市民で組織する岩国禁煙協会の会員である。

守る会は、昭和五六年一〇月、岩国市役所職員の健康を守るため、喫煙者の減少を計ること並びにたばこの煙を庁内からなくすることを目的に結成された。その活動は①喫煙室の設置及び執務室での禁煙を求める②非喫煙者の権利の主張を行う③職員に対してたばこの恐ろしさを知ってもらう④ニュースの発刊等である。

2  昭和五七年四月、守る会は岩国市長に喫煙規制を求める公開質問状を出したところ、岩国市長は「喫煙による影響が医学的に、また、科学的に解明されたものはありません。」「喫煙については、嗜好の問題でありますので、(喫煙規制は)ご了承願います。」と回答した。

3  昭和五九年一二月二八日、守る会の会員を中心として、岩国市職員二二一名が岩国市公平委員会に対し、地方公務員法四六条に基づき事務室と空間的に分離された喫煙場所を設置すること等の措置請求をなしたが、公平委員会は未だ結論を出していない。

なお、岩国市職員組合は、昭和六一年三月の定期大会において、公平委員会に提出されている勤務条件に関する措置要求(禁煙等の措置要求)を支持し、当局に対し事務室等と隔離された喫煙室の設置を要求するとの運動方針を決定した。

4  守る会及び岩国禁煙協会は、昭和六〇年四月より市の公共の建物での禁煙等に関する請願及び喫煙と健康に関する啓蒙促進に関する請願の署名活動を行い、同年九月岩国市議会に対し、岩国市民約一七〇〇名が右各請願を提出した。岩国市議会教育民生常任委員会は昭和六〇年九月喫煙と健康に関する啓蒙促進に関する請願を、同議会総務常任委員会は昭和六一年一〇月市の公共の建物での禁煙等に関する請願を各採択し、市議会本会議もこれを採択した。

5  被告は、原告が要求する事務室を禁煙にし、喫煙場所を設置する等の禁煙措置は行っていない。

二争点

1  原告の主張

(一) 人格権に基づく差止請求

(1) 人格権の根拠

およそ個人の生命、身体の安全及び健康は、人間の存在にとって最も基本的な事柄であって絶対的に保護されるべきものであり、人間たる尊厳に相応しい生活環境を享受することも最大限尊重されなければならないのであって、こうした個人の生命、身体、健康、精神及び生活に関する利益は人格権として保障されなければならない。

(2) 人格権に対する侵害行為

被告は、その庁舎管理権に基づいて庁舎の事務室を禁煙にする権限を有するにもかかわらず、これを行使せず、事務室内で喫煙者が喫煙することを許容している。そのため、原告は、長年にわたって事務室内でたばこの煙によって汚染された空気を吸うことを余儀なくされ、このため眼や喉の痛み、頭痛等が生じて健康状態を害されてきているところ、今後も、執務時間中、受動喫煙を強いられる状況にある。受動喫煙は、以下に述べるように、原告の生命、身体ないし健康に対して極めて有害であるから、被告が事務室を禁煙にしない不作為は、原告の人格権を侵害するものである。

(3) 喫煙の有害性

① 喫煙が健康に及ぼす影響

紙巻きたばこの煙には四〇〇〇種類以上の有害物質が含まれているといわれ、この中には、ベンツピレン等四〇種類以上の発がん物質や発がん促進物質が多量に含まれている。たばこの煙によって発生するがんは、肺がんの他、喉頭がん、口腔内がん、食道がん、腎臓がん、胃がん等、多種類に及ぶ。また、たばこの煙に含まれるニコチンは、猛毒であって、体内に入ると、細動脈血管、毛細血管を収縮させ、血流を低下させ、血圧を上昇させ、血中のコレステロールなどの脂質を血管壁に沈着させることによって、動脈硬化を引き起こし、狭心症、心筋梗塞、脳血栓及び脳梗塞の危険因子となる。さらに、たばこの煙の中には、血液中の酸素欠乏を招く一酸化炭素等の多種の有害物質による複合汚染もある。喫煙者の死亡率は非喫煙者に比べて高く、それは喫煙本数が多くなるほど、また喫煙開始年令が早いほど高くなり、一日につき一本のたばこを吸う度に一二分間寿命が縮まるといわれている。

② 受動喫煙の有害性

たばこの煙に含まれる有害物質の含有量は、喫煙者本人が吸う主流煙と受動的喫煙者が吸わされる副流煙(紫煙)とを比較した場合、副流煙の方が圧倒的に多く、米国における報告によれば、ニコチンで2.8倍、タールで3.4倍、ベンツピレンで3.9倍、一酸化炭素で3.6倍、アンモニアで四六倍といわれ、副流煙の方がはるかに有害であることが明らかにされている。

また、受動喫煙の有害性については、次のような研究報告からも明らかである。

(ア) 米国での報告によれば、ジェームス・ホワイトらの研究によると、二一〇〇人の成人男女を六グループに分けて肺機能を測定した結果によると、非喫煙者であっても、たばこの煙が立ち込めている職場で長年働くと、受動喫煙によってたばこの煙を吸い込む結果、一日一〇本以下の軽喫煙者と同程度の肺機能障害をおこすことが明らかになったという。

(イ) 国立がんセンター研究所の平山雄氏の報告によれば、夫が一日二〇本以上たばこを吸っている場合、たばこを吸わない場合に比べて、非喫煙者である妻が肺がんにかかる比率が2.08倍も高くなるという。

(ウ) ギリシアのトリコポウロス博士らの疫学的調査によっても、一日二一本以上たばこを吸う夫を持つ非喫煙者の妻は、夫がたばこを吸わない場合に比べて、3.4倍も肺がんにかかる率が高いことを明らかにしている。

(エ) 埼玉医科大学及び東京医科歯科大学の動物実験の結果によれば、生後まもないハツカネズミを毎日一回三〇分ないし四〇分間たばこの煙の充満した小部屋に入れると、一年後に七パーセント、一年半後に三三パーセントの割合で肺がんが発生した。

(4) 喫煙規制の実状について

① WHO(世界保険機構)は、一九七四年一二月、専門委員会において、喫煙が肺がん等の各種疾病の主要な原因で、紙巻きたばこが生命を脅かしている旨結論付け、受動喫煙の有害性を前提として、各国に喫煙規制をするように勧告し、病院やその他の医療機関、労働現場、公共の交通機関や施設等における喫煙規制などを盛り込んだ法令の制定に努力するように勧告している。

② 諸外国では、右の勧告以前から、あるいは右勧告を受けて、公共の場所等における喫煙を制限し、罰金をもって喫煙を禁止している国もある。また、わが国においては、医療機関、自治体、交通機関等において喫煙を制限する措置が多く採られるようになっている。

(5) 利益衡量論ないし受忍限度論について

① 本件において、喫煙者と非喫煙者との利益衡量やいわゆる受忍限度論を適用することは許されないというべきである。つまり、右の理論は、本来違法な行為が社会的に有用な故にある程度の被害は受忍すべきであるという場面で用いられるものであるのに対し、喫煙は前述のように有害でこそあれ、なんら社会的有用性もない行為であるから、かかる場合に適用することはその前提を誤るものであり、しかも喫煙という個人的嗜好と健康被害とを衡量することはできないというべきである。

② また、喫煙の嗜好及び習慣が社会的承認を受け、個人的嗜好の問題として他から容喙されることなく喫煙の楽しみを享受したいと考える相当数の人の存在及びその権利を無視することはできないから、受動喫煙を強いられることをもって直ちに人格権の侵害として違法ということはできず、利益衡量は避けられないという主張も失当である。つまり、右にいう「社会的承認」がいかなる意味か定かではないが、公共の場所における喫煙が問題にされなかった背景には、受動喫煙の有害性が科学的に明らかにされずその認識が不足していたこと、建物自体が密閉構造になっておらず、自然換気が行われる構造であったことがあり、受動喫煙の有害性が認識され、建物が密閉構造になった近年においては右の前提が存在しなくなっている。それゆえに、建物内のみならず、交通機関といった比較的短時間しか喫煙者と同席しない場所にまで分煙が拡大しているのであって、単なる習慣が違法行為を合法化することはありえないというべきである。

③ 喫煙の自由との関係について

原告は、喫煙者の喫煙の自由を否定したり、喫煙者に禁煙を強制しようとしているのではなく、むしろ、喫煙者のために事務室以外の喫煙場所の確保を求めているのであって、喫煙者と非喫煙者とが共存するための分煙対策を求めているのであるから、原告の請求を認めたところで、喫煙者の喫煙の自由は何ら侵害されるものではない。しかも、職場は、労働者が一日の大半を過ごす空間であって、執務時間中は離れることができない空間であり、特に事務室は建物構造の変化に伴い密閉状態にあって、喫煙による汚染が著しい状態にあるうえ、職場の非喫煙者の中には呼吸器や循環器系統の疾患を有する者、アレルギー性疾患を有する者、妊婦等のたばこの煙に汚染された空気に曝露されることにより健康状態が著しく悪化する者等、たばこの煙により様々な健康被害を被る者が含まれているのであるから、喫煙の自由といえども無制限なものではなく、非喫煙者が存在する空間においては、喫煙について制約を受けることは免れないというべきである。そのうえ、喫煙者の喫煙の自由は、分煙措置を講ずれば充分に確保し得ることであり、喫煙の自由に多大な制約を課するものではない。

④ 被告の分煙対策について

被告は、本件訴訟を提起した後の平成二年四月一日より禁煙タイムを実施、禁煙タイム外においても事務室外で喫煙することが望ましい旨通達を出していると主張する。しかしながら、禁煙タイムの放送も一週間程度でこれを中止し、禁煙タイムの中の喫煙状況の調査も徹底しておらず、事務室外喫煙の要望書の回覧も徹底していない状況にあり、右禁煙タイムは内実のない形式的なものにすぎない。

⑤ 事務所衛生基準規則との関係について

事務所衛生基準規則は単なる行政上の取扱い基準に過ぎず、しかも労働安全衛生法三条に照らして、右事務所衛生基準規則の基準は最低基準であり、同規則による測定には、たばこの煙に含まれる有害物質の極一部の物質しかその対象になっていない。したがって、事務所衛生基準規則に適合していることをもって、事務室の環境に全く問題がないとするのは、失当である。また、被告庁舎は、冷暖房の機械が地下に設置され、地下より各階に空気が供給される構造になっているので、実質的には中央管理方式であって、被告の行った測定結果はこの方式の基準を超えることが度々あった。

(二) 債務不履行ないし不法行為に基づく損害賠償請求

(1) 被告は、使用者として、被用者である原告に対し、原告が労務に服するについて、その生命や健康を損うことがないように、物的環境を整備し、これにつき配慮する義務を有している。また、被告は、労働安全衛生法二三条により、事業者として労働者を就業させる建設物その他の作業所について、通路、床面、階段等の保全並びに換気、採光、照明、保温、防湿、休養、避難及び清潔に必要な措置その他労働者の健康、風紀及び生命の保持のため必要な措置を講ずる義務を負っている。

(2) 被告は、右安全配慮義務に違反して、職場を禁煙にしていないため、原告は、長年にわたって汚染された空気を吸うことを余儀なくされ、このため眼や喉の痛み、頭痛等が生じて健康状態を害され、しかもこれらの症状や悪臭等のために極めて不快な状態で仕事をしなければならなかった。

(3) 右健康状態を害され、不快を強いられたことに対する精神的損害は三〇万円を下らない。

2  被告の主張

(一) 人格権に基づく差止請求に対して

(1) 喫煙の有害性について

① 自らの意思による積極的喫煙(以下「能動喫煙」という。)の有害性について

たばこは、適量に楽しむ限り健康に害はないというべきである。健康人が食後のひとときや仕事の区切り目に、ゆったりとした気分でたばこを吸う限りでは、害は認められず、疲れた気分をほぐし、ストレスを解消してくれるため、むしろ有益である。

また、たばこと肺がんとの関係は必ずしも明確に立証されているわけではない。日本人男性の喫煙率は約六〇パーセント台で、肺がん死亡率は人口一〇万人について26.9人という割合であるのに対し、旧西ドイツでは男性の喫煙率は約三〇パーセント台で、日本の半分であるにもかかわらず、肺がん死亡率は人口一〇万人について72.0人に達しているなど、喫煙率は日本より低いのに肺がん死亡率ははるかに高いという結果がでている。これは、たばこが肺がんに関係していることは否定できないにしても、その原因であるとは断定できない。

たばこには、ベンツピレンやニトロソアミンなどの発がん物質が含まれているが、一番多く含まれているといわれるベンツピレンでもたばこ一本に一〇ないし二〇ナノグラムといわれ、一日の食事には約四〇〇ナノグラムが含まれているといわれることと比べて、その含有量は決して多いとはいえないし、しかも煙も吸うのであるから、人体への摂取量は更に少ないと考えられる。

また、ニコチン及びタールについても、その大部分は体内に付着しないで、吐き出される煙とともに体外に排出されるなどするので、これらが体内に蓄積されることは考えられない。

② 受動喫煙の有害性について

受動喫煙に関する研究は、密閉された部屋で長時間にわたり、大量の煙を吸わされた場合に関するものが多いが、日常の生活では窓を開けたり、換気扇を回すなどして新鮮な空気を取入れるので、右のような研究が前提とする状態はあり得ず、矛盾点や疑問点が指摘されている。例えば、平山雄氏の研究に対してはP・N・リー及びG・レーネルトからの批判があり、同人らはいずれも受動喫煙によって肺がんの発症リスクが高まるということについての科学的に確信のもてる証明は今日までなされていないと結論付けている。

(2) 利益衡量ないし受忍限度論について

仮に、受動喫煙を強いられないことの利益が保護されなければならないとしても、喫煙者の喫煙の自由も保障されなければならないこと、喫煙の嗜好及び習慣は長年にわたり社会的承認を受けて推移してきたところから、今なおそれに執着し、個人的嗜好の問題として他から容喙されることなく喫煙を楽しみたいと考える相当数の人の存在及びその権利を無視することはできず、利益衡量的判断は避けられないというべきである。

右利益衡量に当たって、次の諸点を考慮すれば、原告の人格権を侵害して違法であるということはできない。

① 被告の禁煙対策について

被告は、平成二年四月一日以降事務室内において禁煙タイムを実施し、午前一〇時から午後〇時まで及び午後一時から午後三時までの間は禁煙としているほか、ロビーや廊下等には灰皿を設置し、右禁煙タイム外においても右灰皿設置場所において喫煙することが望ましい旨を職員に周知させている。

② 事務室の環境測定結果について

昭和六一年一一月二一日、昭和六二年二月四日及び平成三年二月二六日に実施された作業環境測定調査の結果によれば、被告の事務室はいずれも事務所衛生基準規則(昭和四七年労働省令第四三号)に定めるすべての基準に適合している。しかも、平成三年の調査結果を昭和六二年のそれと比較した場合、浮遊粉塵の濃度は33.6パーセント、タール性粉塵の割合は80.3パーセント、タール性粉塵の濃度は26.4パーセント、一酸化炭素の濃度は72.3パーセントにそれぞれ減少し、環境がかなり改善されている。

また、被告の庁舎には本来適用されない右事務所衛生基準規則より厳しい基準値である中央管理方式の空気調和設備の調整基準に当てはめた場合、昭和六二年の調査結果では浮遊粉塵の濃度が一二測点、二酸化炭素濃度が一〇測点で基準値を超えていたのに対し、平成三年の調査結果では浮遊粉塵の濃度が一測点、二酸化炭素濃度が九測点で基準値を超えているに過ぎず、この点からも環境が改善されていることが明らかである。

③ 被告の本庁舎内の職員のうち、35.7パーセントが喫煙者であり、こうした職員の意向も無視できない。

④ 被告の庁舎は、狭隘そのものであり、庁舎の建て替え若しくは増築が急務の現状であるという状況にあり、庁舎内に喫煙室を設置することは不可能である。

(二) 債務不履行ないし不法行為に基づく損害賠償請求に対して

(1) 安全配慮義務は、労働上生じる危険を回避すべき義務に限定され、受動喫煙による健康被害にまで及ぶものではないし、そもそも前述のとおり受動喫煙による健康被害は科学的に立証されているとはいえない。

(2) また、原告が健康をむしばまれたこととたばこの煙を吸引したこととの間に因果関係は存しない。

第三争点に対する判断

一人格権に基づく差止請求について

1  一般的には、人の生命、身体ないし健康を違法に侵害された者は、損害賠償を求めることができるほか、人格権に基づき、加害者に対し、現に行われている侵害行為を排除し、又は将来生ずべき侵害を予防するため、侵害行為の差止を求めることができるものと解するのが相当である。

しかしながら、人の生命、身体、健康に対する侵害には、その態様、程度に種々のものがあるところ、健康等に影響を及ぼすものであっても、その態様、程度によっては、社会生活上、許容されるものもあり得ると考えられるから、健康等への侵害、あるいはその恐れがある場合に、その態様、程度、並びにそれに対する加害的行為(加害者側)の利益の性質、差止による影響などを全く考慮しないで当然に差止を肯認するのは相当とはいい難い。

したがって、本件において、被告が庁舎管理権に基づき事務室を禁煙にせず、事務室における喫煙を許容していることが違法であり、差止請求が認められるには、非喫煙者が受ける影響の程度のみならず、社会一般の喫煙に対する考え方、喫煙者と非喫煙者が同時に存在する職場における喫煙規制の状況等の諸事情を総合的に判断し、侵害行為が受忍限度を超えたものであることが必要であるというべきである。(もとより、その判断にあたっては、生命、身体、健康の重大性に鑑み、これらを重視すべきである。)

2  そこで、原告が被告の管理する庁舎の事務室内において受動喫煙を強いられることによって、原告の生命、身体ないし健康に対しいかなる危険が及んでいるかについて検討する。

(一) 〈書証番号略〉によれば、いわゆる能動喫煙の有害性について原告の主張(第二、二、1、(一)、(3)、①)を概ね認めることができるほか、受動喫煙の有害性についての一般的な疫学的知見等として、以下の事実を認めることができる。

(1) たばこの煙は、喫煙者が吸込む煙(主流煙)と点火部分から立ち上る煙(副流煙)とに区別され、後者の副流煙には主流煙よりも発がん物質が多量に含まれており、受動喫煙はこうした副流煙と喫煙者が吐き出した主流煙とが混ざったものを吸入する。

(2) 受動喫煙の急性影響として、粘膜の煙への曝露によるものと、鼻腔を通して肺に吸引され、そこから吸収された煙によるものがあり、眼症状(かゆみ、痛み、涙、瞬目)、鼻症状(くしゃみ、鼻閉、かゆみ、鼻汁)、頭痛、咳、喘鳴などが自覚されるほか、不快感、迷惑感の原因となる。

(3) 喫煙と疾病との関係については、肺がんを含むがんのほか、動脈硬化を基盤にした心臓病としての狭心症、心筋梗塞を含む虚血性心疾患、肺気腫、気管支炎、喘息等の閉塞性慢性肺疾患が喫煙と非常に関係が大きいといわれているところ、受動喫煙の慢性影響としての右疾病について、肺がんについては、家庭内で夫が喫煙者である場合とそうでない場合についての疫学的な各種の研究報告(原告の主張第二、二、1、(一)、(3)、②)がなされており、約半数の研究報告は危険度は異なるものの受動喫煙との関係を認めているが、これを否定する報告等もある。また、一九八〇年には、職場における受動喫煙についての研究報告として、喫煙環境下にある職場で働く非喫煙者は、一日、一ないし一〇本の喫煙者と同様なリスクを持っているとされている。

(4) 一九七八年のWHO専門委員会報告(〈書証番号略〉)における受動喫煙の有害性についての評価は、換気の悪い密閉した空間では、非喫煙者は一時間に喫煙者が吸う一本の紙巻きたばこに相当する量の煙を吸うと推定されているが、非常に例外的な場合であり、通常の社会生活では、それよりはるかに弱い度合いの煙に曝されている程度で、正常な健康成人にとって、重症の病気を引き起こすという意味ではおそらく危険はないとされ、受動喫煙によって非喫煙者の一酸化ヘモグロビンは中等度に上昇するが、健康成人には肉体上の悪影響は生じないだろうとされている。

(5) もっとも、受動喫煙が乳幼児、妊婦、老人、虚血性心疾患患者、慢性閉塞性肺疾患患者等にとって重大な健康障害をもたらし得ることは多数の研究成果から明らかにされ、右WHO専門委員会報告でもそのように評価されている。

(6) 右のように疫学的報告やその評価において、結論や相対的な危険度が相違する理由については、受動喫煙の曝露の時間及び量、個人の素因、素質及び健康状態の良否などの種々の条件が各研究において異なっていること、発がん要因としてはたばこの煙に限られず、他の要因が関与していることなどが考えられる。

(二) 次に、原告本人が事務室での受動喫煙によって受けている影響についてみるに、原告本人尋問の結果によれば、原告は、昭和四五年四月に被告の職員に採用されたが、昭和五三年ころ、アレルギー性鼻炎に罹患していて、たばこの煙を吸うと、目、鼻、喉が痛くなったり、頭痛がしたり、気分が悪くなったりしたことがあること、昭和五四年ころから時々動悸が激しくなるなど心臓が悪いと感じていたが、これについて医師から原因が不明であるが、自律神経の失調ではないかと言われており、たばこの煙の影響があるとは言われていないことが認められる。

(三) 以上の認定事実によれば、受動喫煙の慢性影響については、非喫煙者に対していかなる危険が及ぶかにつき、前記認定のとおり、受動喫煙による曝露の時間及び量、個人の素因、素質及び健康状態の良否などの種々の条件に依存しているのであって、なお疫学的病理的な研究に待たざるを得ない部分があり、受動喫煙が原告に対して、先に認定した症状以上に、その生命、身体ないし健康に対していかなる影響を及ぼしているかについては、にわかに断じえない。

3  次に、〈書証番号略〉、証人田村元孝、同永瀬忠利、同廣本俊夫及び同弘中昌光の各証言、原告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を総合すると、以下の事実が認められる。

(一) 被告の本庁舎は、昭和三四年に建築されたものであって、事務室等のスペースが狭く、喫煙室を新たに設けたり、事務室内に喫煙場所を設置できる状態にはなく、事務室を全面的に禁煙にした場合には、廊下及びロビー等で喫煙する以外に方法はない(そこには、換気の設備がない。)。

なお、現在のところ、被告において、本庁舎の増改築の具体的な計画はない。

(二) 被告は、労働安全衛生法に基づいて設置された岩国市職員安全衛生委員会の答申に基づいて、平成二年三月二九日付の市長名の依命通達により、同年四月一日から事務室内を禁煙とするが、当分の間(被告は庁舎の増改築時までと考えている。)は全面的に禁煙とせず禁煙タイムを実施することとし、午前一〇時から午後〇時までの間及び午後一時から午後三時までの間事務室内を禁煙とし、禁煙タイムの実施に当たっては禁煙タイムの時間を記載したポスターや庁内放送(午前午後各一回)などの方法を通じて職員に周知するようにした。右禁煙タイムの間にも喫煙を継続する喫煙者は存在するものの、その数は極めて少数であり、概ね禁煙タイムは遵守されている状況にある。

(三) また、平成三年二月二二日付で総務部長から所属長あてに、禁煙タイム中は事務室内で喫煙しないこと、禁煙タイム外でも廊下やロビー等で喫煙することが望ましいことを職員に周知徹底するように文書が出された。また、被告は、平成二年九月中旬ころ、以前は一ないし二個であった廊下の灰皿を一個以上増やし、昭和六二年ころ、庁内に設置している換気扇を二倍程度に増設した。

(四) 被告の本庁舎の空調施設は、複数の空気調和設備を各部屋に設置しているが、全館若しくはフロアー毎で中央管理方式で空気を供給する施設になっていないため、事務所衛生基準規則(昭和四七年労働省令第四三号)の室内空気の環境基準の項が適用されるところ、昭和六一年一一月二一日、昭和六二年二月四日及び平成三年二月二六日にそれぞれ実施された右基準規則に則った作業環境測定調査の結果は、別紙のとおりであり、一酸化炭素濃度、二酸化炭素濃度、タール性粉塵濃度と喫煙率との間に相関関係が認められるものの、右環境基準との関係ではすべての項目にわたって適合している。もっとも、右各測定時の環境が執務時間中のすべてにわたって維持されているとまでは断定できない(特に平成三年の数値は、禁煙タイム中に測定されたものが多いことに留意する必要がある。)が、かといって右測定結果を排斥するほどの事情も認められない。

(五) また、前記基準規則の中央管理方式の空気調和設備の調整基準値と比較した場合には、昭和六二年の調査結果では浮遊粉塵の濃度が一二測点、二酸化炭素濃度が一〇測点で基準値を超えていたのに対し、平成三年の調査結果では浮遊粉塵の濃度が一測点、二酸化炭素濃度が九測点で基準値を超えたに留まっている。そして、平成三年の調査結果を昭和六二年のそれを一〇〇とした場合、浮遊粉塵の濃度は33.6パーセント、タール性粉塵の割合は80.3パーセント、タール性粉塵の濃度は26.4パーセント、一酸化炭素の濃度は72.3パーセントにそれぞれ減少し、環境が改善されているといえる。

(六) その他、平成元年九月二二日、同年一一月二九日、平成二年一月二九日、同年三月二二日、同年五月二四日、同年七月二六日、同年一〇月三日、同年一一月二一日、平成三年一月二三日、同年三月一三日、同年五月二七日に建築物における衛生的環境の確保に関する法律施行規則三条に則って空気環境測定が行われているが、これらの測定結果によれば、炭酸ガス、一酸化炭素及び浮遊粉塵量について一部基準に適合していないものもあったが、ほぼ適合している。

(七) 被告の本庁舎に勤務する職員のうち、喫煙者は、昭和五六年一一月ないし一二月ころにおいて45.4パーセントであった(原告の所属するたばこの煙から職員の健康を守る会の調査による。)が、平成三年五月三〇日現在において35.7パーセント(被告の調査による。)と減少している。

(八) 岩国市には、原告を積極的に支援している職員がいるが、職員組合は表向き支援を表明しているものの組織としての取り組みは消極的で実質的に支援する態勢になく、全体として、あるいは各事務室において、職員の合意により自主的に喫煙の規制を検討する状況にない。

4  喫煙に対する規制の状況をみるに、諸外国はもとより、従来喫煙に対し比較的寛容であった我国においても、近年医療機関や列車を含む公共の場所や職場での喫煙に対する規制が進んでいる社会的状況にあることは認められる(〈書証番号略〉、弁論の全趣旨)ものの、職場における喫煙規制は全体的にみると未だ少数にとどまっているものとみられ、職場においていわゆる分煙化が定着している状況にあるとは必ずしもいい難い。

5 以上の検討結果によれば、事務室内における受動喫煙により前述のような急性影響が生ずることは否定し難く、原告の前記認定の症状もその影響であると推認される。

そして、受動喫煙による慢性影響として、がんや心臓病等の重篤の疾病に罹患する危険性があるかどうかについては、前記認定のとおりその危険性があるとする有力な研究結果があることや、能動喫煙の有害性については前述のとおり承認されており、受動喫煙の場合も、その態様や程度により同様の危険性があることは十分考えられること等の点に照らすと、その危険性を全く否定することはできないというべきである。

しかしながら、一方で、前述した研究結果や研究方法について疑問を呈する見解もあること、さらには、受動喫煙による影響は、前述したとおり、受動喫煙の曝露の時間及び量その他諸種の条件の違いにより一様に論じえない性質のものであること等に照らすと、本件において原告が受動喫煙を強いられることにより前述した慢性影響が生ずる危険性がどの程度あるかを判断するには未だ証拠が不十分であるといわざるを得ない。なお、原告は、心臓が悪いというけれども、受動喫煙との因果関係は不明である。

そのうえ、被告においても、本件訴訟の提起が契機となった面があることは否定できないにしても、職場環境の改善について前述したような努力をしてきており、その結果必ずしも十分とはいい難い面があるものの、環境は以前に比べ改善されてきていることが認められる。

さらに、被告は原告を含めた職員のより良い職場環境を設定することが望ましいとしても、非喫煙者の健康に対して影響を及ぼす可能性をすべて排除すべき法律上の義務があるとまでいうことはできず、職場環境をどのように設定するかについては一定の裁量権があるものと認められるところ、被告において、原告を含めた非喫煙者の健康に対する影響、その程度のほか、本庁舎が狭隘で独立した喫煙室を設置することができないという制約がある(被告も増改築時には喫煙室を設ける方針である。)こと、原告が主張する廊下やロビー等を喫煙場所とした場合の影響、職員の喫煙者の割合(前述のとおり本庁舎では平成三年五月時点で約三四パーセントいる。)、職員の喫煙に対する考え方等諸般の事情を考慮すると、現時点においては前記認定の喫煙対策をとること(前述したとおり一応の成果を挙げている。)も裁量の範囲を逸脱したとはいえない。

以上の諸点を総合して考えると、原告の受動喫煙により受けた被害の程度は、未だ受忍限度の範囲を超えるものではないというべきであるから、被告が庁舎の事務室を禁煙にしていないことをもって、直ちに違法(人格権の侵害)であるということはできない。

そうすると、原告が被告に対して事務室を禁煙室にすることは請求できないというほかはなく、原告の差止請求は、理由がない。

二債務不履行ないし不法行為に基づく損害賠償請求について

被告は、使用者として、原告に対し、原告が労務を提供するに際して、その生命、身体ないし健康を損なうことがないように配慮すべき注意義務を負っているものということができる。

そこで、本件において、原告が主張するような喫煙規制に関して被告の安全配慮義務違反があったかどうかについて検討するに、前認定のとおり原告が受動喫煙によって受けた影響は受忍限度の範囲内にあると認められる。もっとも、差止についての判示は本訴提起後に被告のとった措置を含めての判断であり、それ以前の義務違反が問題となるので、その点を付加するに、受動喫煙により原告の受けた影響の程度、被告の庁舎が狭隘で喫煙室を設置するだけのスペースがないという物理的制約があること、前認定の昭和六一年、六二年の作業環境測定調査の結果、被告の職員の喫煙規制についての意識のほか、本訴の提起された昭和六二年ころの社会全般における喫煙に対する規制の要請の程度、また、喫煙場所や喫煙室(庁舎新築の場合が多い。)を設置した市町村の例が報道されていたものの未だ少数であったとみられること(ちなみに、原告側の提出した証拠によっても、山口県下の地方公共団体で何らかの喫煙規制を実施しているのは、下関市、光市、玖珂郡和木町、阿武郡田万川町程度である。)、等の事情を総合考慮すると、被告に安全配慮義務違反があったとは認め難い。

よって、被告には安全配慮義務違反が認められず、また、原告が安全配慮義務と同内容のものとして主張する過失も認められないので、原告の債務不履行ないし不法行為に基づく損害賠償請求は理由がない。

第四結論

以上のとおり、原告の本訴各請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官角隆博 裁判官稲元富保裁判長裁判官谷岡武教は、転補につき、署名押印できない。 裁判官角隆博)

別紙図面1ないし20〈省略〉

別表環境測定結果1ないし2〈省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例